現代的ブログ記事というものに関する簡単な考察

書いてしまった後で、このタイトルは不適切だなと思った。でもまあいいや。そのままにしておこう。


sa.yona.la という少しだけ新しいタイプのサービスを見つけて最近見ているのだが、その中の gvhqe8 | sa.yona.la を見て、何気なく思った。


なんだこれ… まるで同じじゃないか。


むしろそれほど遂行もせずに書いているブログの方が寧ろシンプルで分かりやすく随分とまともかもしれない。


何と比べて?


久しぶりに読んだ朝刊の記事と比べて。


最近、新聞をきちんと読むということをしなくなった。一応開いてどこに何の記事が書いてあるかという程度には目を通すのだが、中身は斜めに目を通す感じでほとんどまともに読まない場合が多い。でも今朝はとても久しぶりにいくつかの記事にきちんと目を通した。これは件の新聞社のおかげかもしれない。


その新聞は新聞の文字サイズをさらに大きくするらしいけど、以前に新聞社が一斉に文字サイズを大きくしたことがあった。時期としてはそれよりもさらにその前に遡るのだけれど、その頃から新聞記事の質の低下というのはかなり一気にあっという間に加速して酷くなってきている。


いくつかだけ読んだ記事はどれも酷かった。中身がなく、整理されていなくて、さらに骨子もない。意味不明瞭でそのうちのひとつは3回ほど読みなおしたが釈然としなかった。読むに値しないというのが本当にぴったりとくる内容だった。


これは、記事の中身に何が書いてあるかがひとつ。それに簡潔明瞭で分かりやすく書かれているのかということがもうひとつ。それと、全体として何かを感じさせる記事であるかということがさらにある。


非常に分かりやすい例を挙げるとするなら天声人語があげられる。その時々の社会や世相、暮らし向きと言ったものを反映しつつ、日々流れ続ける時事評論として天声人語は現在も続いている。この天声人語の最近20年ほどの中身を比べてみるといいのではないだろうか。


きっと読んだ者すべてがその文章完成度の変遷に唖然とするのではないだろうか。本当に酷くなってしまった。それを加速化させたのは文字サイズの変更とそれに伴う文字数制限のきつい縛りなのだが、その当時にお年寄りのためと称して分かりやすい紙面を目指すとのことで文章をやたらと短い文章にするようになった。


最初はこのいくつかのきつい縛りによって一時的に酷い文章が増えたのだろうと思っていたのだが、そうではなかった。暫くすれば少しは安定して少しはましな状態になるのではないだろうかなどと思っていたのだが、そこから現在までに事態が改善することはなく寧ろもっと酷くなっている。


なぜこのような状態になったのかはよく分からないのだが、ひとつ感じていることがある。ある程度遡った昔の文章と比べて、現在の文章において顕著なのは文章の短文化と散文化なのではないだろうか。またこういった傾向は新聞に限ったことではなくて、ほかの雑誌、書籍、文学といったあらゆる領域で起きている現象のような気がする。


山のように雑誌や書籍が発行され、山のように廃棄されていく過程の中で、いろいろな事情が作用して現在のような傾向が形成されてきた。そして仕入れた情報を即座に流すことを是とする現代のネット事情によって、こういった傾向はさらに加速化されてる。それとFRB、KYのような文章における状態などの記号化も進んでる。


こういった中で、平仮名、カタカナ、漢字、ローマ字、場合によってさらに英語などほかの言語までを駆使する日本語はどういった言語へと変遷していくのか。ある程度までの予測が出来るような気がする...



(さてと、上の状態での1437文字を冗長的な昔風の文章に変えてみる)


sa.yona.la という少しだけ新しいタイプのサービスを見つけて最近見ているのだが、その中の gvhqe8 | sa.yona.la を見て、最近の新聞記事はこの程度であり、寧ろそれほど遂行もせずに書いているこのブログの方がシンプルで分かりやすくて良いのではないだろうかと、そう何気なく思った。


最近では新聞をきちんと読まずに、どこに何の記事が書いてあるのか中身とともに斜めに目を通すのだが、今朝は件の新聞社のおかげでとても久しぶりにいくつかの記事にきちんと目を通した。


件の新聞は文字サイズをさらに大きくするらしいが、それ以前に新聞社が一斉に文字サイズを大きくしたことがあり、さらにそれ以前より新聞記事の質は低下し続けている。いくつか読んだ記事は中身がなく整理されずに骨子もない上に意味不明瞭という酷いもので、さらにそのうちのひとつは3回ほど読みなおしても釈然としない程の、読むには値しない、何かを感じさせるかなどという以前の代物だった。


その時々の社会や世相、暮らし向きと言ったものを反映しつつ、日々流れ続ける時事評論として現在も続く天声人語の、最近20年ほどの内容を比べてみるといいのではないだろうか。きっと読んだ者すべてがその質の低下に唖然とするだろう。


こういった状態を加速化させたのは、お年寄りのためと称して分かりやすい紙面を目指すという前提の下で大きな文字サイズと短い文章によって少ない文字数の記事を作成し始めたことだろう。当初はこの前提によって一時的に酷い文章が増えても暫くすれば安定すると思っていたのだが、事態は改善されずに寧ろ深刻化して現在に至っている。


なぜそういった状態が放置されたまま現在に至ったのかはよく分からないのだが、現在の文章において顕著な傾向は文章の短文化と散文化なのではないだろうか。またこういった傾向は新聞に限ったことではなく、ほかの雑誌、書籍、文学といったあらゆる領域で起きている現象のような気がする。


雑誌や書籍が山のように発行、廃棄されていく現代的消費社会における過程でいろいろな事情が作用して現在のような傾向が形成されたことは確実であり、情報の停留を妨げないことを是とする現代のネット事情によって、こういった傾向はさらに加速化するだろう。また、それとは別にFRB、KYのような記号化も進んでいる。


こういった中で、平仮名、カタカナ、漢字、ローマ字、場合によってさらに英語などほかの言語までを駆使する日本語がどういった言語へと変遷していくのかに関して、ある程度の予測が出来るのではないだろうか…


(文章をつなげて軽めの省略をして1065文字)


などと、思いつきで書いた文章を考察しやすいように「ちょっと親父め現代ブログ風」と「ひと昔ふた昔前の冗長的文章風」にしてみたのだけれど、すこしは考察風になっているんだろうか。


個人的には「通常の新聞」と「sa.yo.nala」とこの2つで充分考察風になってるんだけど... まぁ、個人的な雑記だからいいか...



追記:
あとで読み返して致命的なミスに気づいた。最初の方に「まるで同じじゃないか」という文章があるのだけれど、これは文章の酷さではなくて文章構成における方法論や表面的形状としての散文的構造が似ているというだけのことで、その小さな部分にふと気づいたというだけのことがこの稿の発端なのだけれど、そういう風に取ってくれっていうのも無理があるな... 反省...